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顧問:奥泉 裕史

経歴
1937年(昭和12年)4月18日生まれ
1962年(昭和37年)三菱地所(株)入社
1985年(昭和60年)当協会設立に参画
1996年(平成8年)三菱地所(株)専務取締役就任
2002年(平成14年)当協会副会長就任
元(株)横浜スカイビル代表取締役社長 兼 三菱地所(株)顧問

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私とオーストリア

 私の生まれ育った家の食堂といっていた部屋に、中央に立派な髭(後にプロペラ髭といわれた)をたくわえた将軍とそのご家族、そして私の祖父が緊張した面持ちで座っている、我が家の前庭で撮った写真が掲げられてあった。

 この将軍がほかならぬレヒル少佐を高田に招いて日本で初めて体系的にスキーを指導させた長岡外史であって、祖父が師団長官舎の建築にかかわり、その縁で師団長閣下ご一家を能生海岸の鯛の地引網にご招待した時のものらしい。私は生まれた時からそうした縁でオーストリアに繋がっていた。

 やがて小学校の時に、屋外体操場でスキー映画の上映会があった。ハンネス・シュナイダー主演、アーノルド・ファンク撮影の「スキーの驚異」と「エンガディーンの狐狩り」であったと記憶するが、その余りの素晴らしさに魅了され、いつの日にはオーストリアに行きたいものだと思った。

 中学生の時、北大のスキー部にいた従兄が帰省中に長岡の悠久山でオーストリアスキー術を見せてくれた。当時珍しいラングリーメンの締め具でパラレルで滑る「くの字」の外傾姿勢は鮮やかであったし、たまたま街で見付けた馬場忠三郎氏の「最新のスキー術」?は正にアールベルク一色であった。そして麻生武氏の本を読んでますます憧れを強めていた。

 ただ我々の学生時代は戦中戦後の混乱期で、スキーどころではなかったが、大学卒業の翌年町長に当選した私は地元妙高高原のリフト会社の役員に就任し、再びスキーとの縁ができた。そしてやがて県議会議員に当選して間もなくスキー場先進地視察の機会い恵まれた。好機逸すべからずと通常のスケジュールは2週間ばかりであったのを、私費を加えて2ヶ月間ヨーロッパのスキー場を滑り歩いた。三浦雄一郎氏がスキー武者修行でヨーロッパにおられた頃で、たしかインスブルックのホテルで行き会ったと記憶している。

 勿論最初に目指したのはオーストリアであり、ハンネス・シュナイダーの故郷サンクト・アントーンである。縁あって麻生武氏からスキー学校校長ルデイ・マット氏への紹介状をいただき、ヨーロッパ遊学最初の10日間をそこで過ごした。私は旧制高校で第1外国語にドイツ語をとり、大学では鹿子木コルネリア先生に会話の個人レッスンを受けていたので、一人旅でも日常会話にこと欠くことはなかったが、1ドル360円時代、屋根裏部屋で過ごす日も多かった。

 日本では人間の命がまだそんなに多角評価されていなかった時代、スキー学校で厳しく言われたのは、常に自分でコントロール出来るスピードで滑れ、停止し損なって他人を傷つけたら一生かかっても償えないような賠償を要求されることがあるぞと注意されたことである。今日まで私が全国スキー安全対策協議会会長を務めて来た原点がここにある。

 その後新潟県スキー連盟会長から全日本スキー連盟副会長、蔵王における第11回インタースキー(世界スキー教育会議)実行委員長などを務めてオーストリアのクルッケンハウザー教授やホッピヒラー教授に親交を頂くようになったが、お二人とも既に故人となられたのはまことに寂しいことである。

 オーストリアとのご縁は、政治面では日墺友好議員連盟副会長兼事務局長として、歴代駐日大使から親しくお付き合い頂いた。スキーを通じての交流推進や、シャンベック上院議長の訪日のお世話をするなど、両国の友好親善に貢献したということで、オーストリア大統領より「大銀栄誉章」「大銀栄誉章星付き」よ2度にわたり勲章を頂いたが、幼い日の夢の賜物との感慨深く、チロールの輝く雪山の思い出に浸るこの頃である。

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