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理事:市川猿之助(歌舞伎俳優)

経歴
歌舞伎俳優。
初世猿翁(二世猿之助)を祖父に、三世団四郎を父に持つ。
1947年市川團子の名で初舞台を踏み、63年三代目猿之助を襲名。
66年から自身の勉強会「春秋会」を主宰し、古狂言の復活や古典の新演出などで創造的な活動を開始、そうした中から『義経千本桜・忠信篇』『伊達の十役』『再岩藤』などの通し狂言を復活上演、宙乗り、早替りといった江戸歌舞伎の持っていた視覚的な面白さも織り込みながら、楽しめる舞台作りを行い、“猿之助歌舞伎”と呼ばれる。
86年には、スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』を創演、大評判をとる。現代の観客の共感を得られる物語を現代語の台詞で語り、伝統的な歌舞伎の演技・演出術を活用、最先端の舞台技術を駆使するスーパー歌舞伎はこれまで8作を数え、来年は第9作『新・三国志Ⅲ(完結篇)』を上演の予定。

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私とオーストリア

私のオーストリアについての想いは、2つあります。
先ず、1985年5月から6月にかけて、訪欧歌舞伎公演として、オーストリアを始め、イタリア、ドイツなど5カ国9都市で『義経千本桜』を上演した時のことです。
 ウィーンでは、5日間で6回の公演をアン・デア・ウィーン劇場で行いましたが、お客様の反応に特別なものを感じました。パリと並ぶ芸術の都と呼ばれプライドの高いウィーンは“なまじなことでは認めやしない”という態度がアリアリで、幕が開くとシラッとした空気が舞台に流れ込み、前半劇中の観客の反応は重く、芝居の中での拍手などは起きません。
 しかし大詰めの『蔵王堂』の立廻りになると堰を切ったように大喝采が起こり、一旦これは良いと受け入れるその反応は大変なもので、特にカーテン・コールなどは劇中の静かだった分反応が凄まじく、客席は総立ちとなて足を踏み鳴らし「ブラボー」と叫んだり、また三層あるバルコニーの上の方から人が落ちてくるのではないかと心配になる程、身を乗り出して熱狂してくれたのでした。
 『蔵王堂』は海外ヴァージョンで約15分にまとめてありましたが、それでも終演は午後11時半を過ぎ、更に後熱狂的なカーテン・コールが12時2~3分前まで続きました。そしてその後観客は潮が引くようにいっせいに劇場を出て前の通りを横切り、向かいにある駅から12時05分の終電車に飛び乗って帰って行った事が懐かしく思い出されます。このウィーンの観客のキッチリと芝居を観るという成熟した芝居好きぶりが、先ず何より強く印象に残っています。
 次に、これは95年に、ドイツのバイエルン国立歌劇場でR.シュトラウスのオペラ『影のない女』を縁スツした時の思い出ですが、この時は5週間ミュンヘンに滞在して、稽古に没頭していました。慣れないオペラの演出ということもあってかストレスが溜まりましたので、休日の度に南ドイツのミュンヘンから遠くないチロルの奥座敷と呼ばれる山々や谷々の田舎町に出掛けて静養しておりました。
 車がドイツとオーストリアの国境を越えると、それまで家々の窓に植木の鉢が飾られ大変カラフルだったものが急に地味になり、しっとりとした落ち着いた感じになるのが、当時としても心地良く感じられたのを覚えています。
 学生時代、山歩きが好きだった私は、今でも舞台に出ていないときは山の見える所で過ごすのを常としていますが、この時もオーストリアの田園風景に大層心安らぐ思いがいたしました。
 また機会を作り、是非ゆっくり訪問したいと考えております。

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